iPS、世界と隔たり 集中投資も存在感乏しく 科技立国 動かぬ歯車
「経過は順調だ」。
大阪大学の澤芳樹教授らは2020年12月、iPS細胞から作った「心筋シート」を重い心臓病の患者に移植する世界初の手術を3人に実施したことを報告した。
19年末に始めた医師主導臨床試験(治験)は前半を終えた。
iPS細胞の臨床応用は広がっている。
心臓病のほか加齢黄斑変性など目の病気、パーキンソン病、がんなどの治療を目指す臨床研究や治験が進む。
安全性や効果を示せるかが注目されている。
京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞の作製法をマウスで発見したのは06年。
山中教授は12年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
政府は13年、iPS細胞を使う再生医療の実現に向け、10年間で1100億円という巨額の投資を決めた。
皮膚などの体の細胞から胚性幹細胞(ES細胞)のような万能細胞を作るという山中教授の発想は斬新なものだった。
研究計画を審査した岸本忠三・阪大特任教授が可能性に注目するなど、政府が支援したことで発見につながった。
科学技術政策の成功例といえる。
その後の大型投資は「選択と集中」の象徴だ。
iPS細胞関連の研究者は増え、論文も増えた。
だが、その課題や弊害も見えてきた。
独ロベルト・コッホ研究所などのチームが人のiPS細胞に関する論文を18年に調べると、日本は論文
数シェアで世界2位だった。
ただ、論文を掲載した科学誌の影響度(インパクトファクター)と論文の被引用数は平均を下回った。
国内で初めてES細胞を作った京都大学の中辻憲夫名誉教授は「日本は間違った過剰な選択と集中によって、投資対効果が低い結果になった」と批判する。
iPS細胞に集中投資した半面、ES細胞など他の幹細胞研究の支援は手薄になった。
両者は関連技術に共通部分が多いのに、日本はバランスを欠いた。
世界の動きは速い
米国立衛生研究所(NIH)や米カリフォルニア再生医療機構は10年代半ばに再生医療の研究予算を減らし、遺伝子治療や細胞医療の拡充に転じた。
英国も同様の傾向だ。
注目するのは、人工的に機能を高めた「デザイナー細胞」の研究だ。
代表的なものが、遺伝子操作した免疫細胞で血液がんを攻撃する「CAR-T細胞療法」。
17年に実用化し、様々ながんで応用研究が進む。
画期的な治療法と期待を集める。
科学技術振興機構研究開発戦略センターの辻真博フェローは「iPS細胞中心の再生医療から軌道修正が必要だ」と提案する。
集中投資で培った人材や成果を生かし、免疫学など日本が強みを持つ分野と組み合わせれば、デザイ
ナー細胞で世界と競合できるとみる。
政府も軌道修正を模索する。
日本医療研究開発機構(AMED)は予算の枠組みを20年度からの第2期中期計画で変えた。
第1期では「再生医療」としていたプロジェクトを「再生・細胞医療・遺伝子治療」に再編した。
有識者会議で30年ごろまでの国や企業の投資対象などを工程表にまとめる検討も始めた。
新型コロナウイルスのワクチンを開発した米モデルナの創業者は、iPS細胞の発見から着想を得たと
いう。
幹細胞が持つ可能性は再生医療に限られたものではない。
神奈川県立保健福祉大学の八代嘉美教授は「多様な研究を支える資金制度が重要だ」と指摘する。
世界の潮流に合わせた戦略的な研究と、斬新な発想の研究のバランスを取り、いかに柔軟に軌道修正するか。
資金や人材が限られる中、日本のマネジメントが問われる。
参考・引用一部改変
日経新聞・朝刊 2021.1.11