ミクロの医療ロボット
ミクロの医師がカラダを巡る
脳内出血を起こした科学者を救うため、卓越した医療チームを極小化して体内に送り込み、治療する――。1966年製作の米SF映画「ミクロの決死圏」に描かれた空想の世界が、現実に近づいている。米マサチューセッツ工科大(MIT)のシュアンフ・チャオ准教授の研究チームは8月、脳血管に詰まった血栓を取り除くのに応用できるヘビ型の極小ロボットを開発したと発表した。世界で心臓病に次ぐ死因の第2位とされる脳卒中の治療が目的で、詰まったりコブができたりした血管の患部に最短時間でたどり着く。生存や回復のカギを握る治療の「黄金時間」での活躍が期待されている。
■ロボット糸が血管通過、「黄金時間」に患部へ
MITの「ロボット糸」が直径数ミリメートルの疑似動脈の中をはうように進む。3Dプリンター製の糸は直径約0.5ミリメートル、長さ数十センチメートル。ヘビのように自在にうねり、真っすぐ立つことも可能だ。しなやかな動きはまるで魔法で操っているかのようだが、研究者が少し離れたところで磁石で糸を操作している。
「最初のコーナー、曲がります」。シリコン製の疑似血管の外側に研究員のユンホ・キム氏が磁石を近づけると、内部のロボット糸が形を変えながら素早く疑似血管を通過した。90度未満の急カーブもお手の物で、疑似血管の内部を傷つけずに滑らかに移動できる。糸の先端に薬を装着し、患部で血栓を溶かすなどの処置を施すことを想定している。
糸の材質は、ニッケルとチタンの合金で、磁石の性質をもつ。同じ極は反発し、異なる極は引き合う磁石の原理を利用し、患者の体外から磁力で糸を操作する設計だ。MITのチャオ准教授とキム氏らが2017年から研究してきた。
ロボット糸は治療時間を短縮できるのが最大の利点だ。脳に栄養と酸素を運ぶ動脈が詰まったり破れたりすると脳の神経細胞が壊死(えし)し、まひや言語障害などの後遺症が現れる。命が助かり、脳の機能を回復できる可能性が高いのは、発症から6時間以内の「黄金時間」とされる。
従来の手術は、足の付け根の動脈からカテーテル(管)を挿入し、目的の脳の血管まで届かせる。足の付け根を入り口にするのは、ほぼ曲がらずに脳まで管を通せるからだ。首や胸から管を入れられればより短時間で脳の患部にたどり着けるが、血管をうねるように進まなければならない。
血管の形状に合わせてヘビのように進むロボット糸なら患部により早く到達できるとキム氏は話す。「遠隔手術を可能にしたい」とも語り、挿入したロボット糸を医師が遠隔操作できれば、治療を受けられる患者が増えるとみている。医療の進んだ先進国の都市部なら間に合う可能性が高い「黄金時間」を地方や発展途上国の患者にも提供するのが目標だ。
実用化には「10年程度はかかるだろう」とチャオ氏は話す。すでに米医療界と意見交換を重ねており「患者からも医師からも要望が強い技術だ」(同氏)。ただ、乗り越えるべき課題は多い。磁力を制御する機械や、血管内でのロボット糸の動きを見られる画像認識システムなどの開発はこれからで、人体に無害な糸の大量生産技術の確立も必要だ。
■原動力は人工筋肉、電気不要
日本では血管を駆け巡り、検査や診断、治療まで行う微小ロボットの研究が進んでいる。
北海道大学では、アメーバのような微小ロボットが培養皿の上でうごめく。ロボットといっても、電子部品で動くわけではない。分子を機械の形に組み立てた「分子ロボット」の原動力となるのは、角五彰准教授が作った人工筋肉だ。
人工筋肉は、太さがわずか10万分の1ミリメートル余りの糸でできている。糸の正体は、生物の細胞の中にある微小管と呼ぶ筒状のたんぱく質だ。生体物質のアデノシン三リン酸(ATP)に反応し、膨らんだ状態から40分の1まで縮む。電気や磁場といった従来の駆動エネルギーは不要だ。
分子ロボットはたんぱく質やDNAなどの生体物質を材料に、周囲の環境に応じて動く。着想は1982年にさかのぼる。米国の科学者が二重らせんの構造を持つDNAの形を変え、様々な微小な構造を作る技術を提唱した。80~90年代には輪が鎖のように連なったり、棒状の分子に輪を引っかけたりする構造まで作れるようになった。
「ロボット」に組み立てる発想は、2010年に日本が世界に先駆けて打ち出した。16年には欧米の3研究者が分子ロボットの基礎研究でノーベル化学賞を受賞した。分子を使った微小な昇降機やモーターの実現に道を開いたと評価された。
分子ロボットが普及すれば病気の検査や診断、治療の現場は様変わりする。研究者が考える未来はこうだ。ロボットが極端に小さくなると、いつも体内に住まわせておける。日ごろから分子ロボットが体内をパトロールし、体の異変を見守る。薬を携えて患部に急行し、大事に至る前に治療にとりかかる。病気の検査や治療は普段の暮らしでいつのまにか分子ロボットが済ませてくれ、わざわざ病院に通うのは過去の話になっているかもしれない。日常と病院内の「非日常」の垣根を取り払う。これこそロボット技術がもたらすディスラプション(創造的破壊)だ。
東京工業大学の小長谷明彦特任教授は糖尿病治療への活用を目指す。糖尿病は血糖値を抑えるホルモンのインスリンが出にくくなる。小長谷氏らは分子ロボットが食後に血液中で高まった糖分をセンサーでとらえ、インスリンを分泌する技術の開発に取り組む。マウス実験を進めており「5~10年後に微小な人工筋肉が実現し、その後に糖尿病の治療に使う分子ロボットが現れるのではないか」と小長谷氏は話す。
欧米など各国は分子ロボットが持つ潜在力に注目し、研究に乗り出している。日本は12~16年度に文部科学省が大型プロジェクトを始め、現在も後継の計画が進行中だ。
潜在力の一方、普及への大きな課題は安全性の確保や社会の合意形成だ。分子ロボットが体内で悪さをしたり、その小ささから病原菌のように他人に乗り移ってしまったりすることへの懸念は根強い。「ミクロの決死圏」は、必ずしも空想の世界ではない。分子ロボットに姿を変えて、技術開発は着実に進んでいる。小長谷氏らは分子ロボットの技術に関する倫理綱領をまとめ、人体の安全や環境への影響の配慮、情報管理の必要性などの4項目を盛りこんだ。今後も必要に応じて見直す方針だ。
参考・引用一部改変
日経新聞・朝刊 2019.11.27
<関連サイト>
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