ウイルスはサイコロを振る 文明の興亡、偶然が操る
感染は気まぐれ、潜む脅威
歴史は偶然の上に成り立つ。史実と同じ数だけ、起きたかもしれない事実がある。命運を分けるサイコロのいくつかはウイルスが振っている。
英ケンブリッジ大学などのチームは北欧で600~1050年ごろに埋葬した11人を含む13人の亡きがらを調べ、天然痘ウイルスの痕跡を見つけた。
ゲノム(全遺伝情報)を解析し、天然痘ウイルスが初めて現れたのは300年ごろと推定した。
言い伝えなどを脇に置けば、出現は1600年ごろだと専門家は従来のゲノム研究から考えてきた。
「実際は1000年以上早い」。
同大のバーバラ・ミューレマン博士は7月、米科学誌「サイエンス」に発表した。
「1000年以上も前」という史実は、ウイルスの進化史を大幅に更新した驚きとともに、これだけの長い間、「起きていたかもしれない脅威」に文明がさらされ続けていたという恐怖を呼び起こす。
ウイルスは気まぐれだ。
人類にいつ牙をむくか、予断を許さない。
動物に巣くうウイルスがたまに遺伝情報の複製ミスを起こし、感染力や病原性が一変する。
ヒトの細胞を乗っ取れるようになり、ヒトの中で増え始める。
発見した天然痘ウイルスのゲノムは20世紀に流行したタイプとは違った。ミューレマン博士は「遺伝情報だけで当時の病原性はわからない」と話す。ウイルスが態度を決めかねていた時期かもしれない。
天然痘ウイルスは20世紀だけで3億~5億人の命を奪った。
18世紀にワクチンを発見し、世界保健機関(WHO)が根絶を宣言したのが1980年。
歴史に「もしも」は無いが、1000年以上も前に北欧で猛威をふるっていたらと考えると、背筋が凍る。
この時代は北欧のバイキングが欧州とアジアを行き交った。
映画やアニメでは海賊の印象が強いが、航海技術にたけて商人の一面も持つ。バイキングは当時の世界経済を回し、欧州の歴史に大きな影響を及ぼした。ウイルスがバイキングを世界の片隅に追いやっていたら、世界は今とは違った姿になっていたはずだ。
当時の病原性が弱かったとしても影響はある。
バイキングは北米や地中海、カスピ海まで移動した。
天然痘ウイルスを世界に広げた疑いもかかる。
後の世紀には今の南米にあったインカ帝国を天然痘ウイルスが襲い、滅亡の引き金になったともいわれる。
6月にもドイツのロベルト・コッホ研究所が麻疹ウイルスの起源が1400年以上も遡ったと米科学誌「サイエンス」に発表した。
紀元前6世紀には姿を現していた。従来は9~10世紀とされていた。
ウイルスの起源に関心が集まるのは、どこかで病原性が強まったら歴史が塗り替わるからだ。
この「偶然」に文明の興亡はかかっている。
人類はウイルスのトゲの上に片足で立っているような存在だ。
東京大学の佐藤佳准教授はチンパンジーのウイルスがヒトに乗り移り、エイズウイルス(HIV)になった謎に迫った。
チンパンジーからゴリラを経てヒトにうつる経路をたどると、ウイルスの遺伝物質を形づくる約9000個の部品のうち、2個が変わるだけでチンパンジーからゴリラに感染できていた。
わずかな変化で「『種の壁』をいとも簡単に越える」という。
現代文明は偶然の脅威を制圧できるのか。
京都大学の田中宏明教授は抗ウイルス薬による環境汚染がウイルスに手を貸すと警戒する。
例えばインフルエンザが流行すると薬を服用する人が増え、下水を通じて薬の成分が河川に流れ込む。
「河川にごく微量あるだけで薬の効かない耐性ウイルスが生まれ得る」という。
現代は野生動物の生息地と都市の境界が曖昧になっている。
東京工業大学の二階堂雅人准教授はウイルスの温床になりやすいコウモリの一種「オオコウモリ」のゲノムが他の哺乳類と異なるのに気づいた。
特殊な免疫を備えているとみられ「コウモリの免疫をかいくぐろうと、ウイルスが強くなる」。
新型コロナウイルスなどもこうして鍛えられ、人類を脅かすようになった恐れがある。
ウイルスの「培養器」は現代文明のすぐそばにある。
歴史に潜む「もしも」へ思いをはせる想像力が未来への備えになっていく。
参考・引用一部改変
日経新聞・朝刊 2020.10.25