厳密にはがんに完治なし

厳密には「完治」なく

大腸菌のように、自分の分身を単純に複製する「無性生殖」で増える細胞には寿命はない。
しかし、クローン増殖では多様性は望めないので、私たちの祖先は20億年も前に「有性生殖」を始めた。
個体の寿命はその代償として作り出されたのだ。
がん細胞は遺伝子の経年劣化によって死の仕組みが壊れ、原始的な細胞に「先祖返り」したものと言える。

有性生殖をする個体の死は進化の過程で自らつくった手段だから、自然なものだ。
ある程度の大脳を持った動物、例えば猫でさえも「自分が死ぬこと」を恐れているとは思えない。
それどころか「自分もいつかは死ぬ」ことすら分かっていない。
猫の大脳は死を怖がるほど発達していない。

ところが、人間は大脳を非常に進化させた結果、「ある時間が経てば自分が死ぬ」ことを知ってしまった。このことが、死の恐怖の根源だと思われる。
それ自体も脳の産物といえるが「時間」はがんの医療でも重大な役割を持つ。
20年後に再発するケースもあるので、厳密にはがんに「完治」はない。
しかし5年間再発がなければ、便宜上治癒と考えるのが一般的だ。
このため「5年生存率」を治癒率の代わりに使うことが多いが、乳がんのように、後々まで再発の可能性が残るがんでは、10年生存率が使われる。
ただし5年にせよ、10年にせよ、数字自体に深い意味があるわけではない。
便宜上、「キリの良い」数字を使っているに過ぎない。

ぼうこうがんは再発しやすいがんの代表だ。
最も早期でも1年以内の再発率は24%、5年以内では46%に上る。
最近では余命6か月などと医師が「残り時間」を口にすることも多くなっている。
がん患者は時間に管理される存在になったかのようだ。

執筆
東京大学病院准教授 中川恵一先生

参考・引用一部改変
日経新聞・夕刊 2019.1.23


関連サイト
大腸菌(Escherichia coli)
https://www.toho-u.ac.jp/sci/biomol/glossary/bio/Escherichia_coli.html
腸内細菌の一種。
好気条件でも嫌気条件でも生育できる。
短径0.7 µm、長径2~4 µmの短い棒状の単細胞生物であり細胞分裂により増殖する。
有性生殖、すなわち、雄の菌と雌の菌の細胞同士が接合し、雄菌から雌菌に遺伝子が移行し組換えが起きることが1940年代のはじめに発見され、それ以来この菌は遺伝学の研究対象とされるようになった。
その後、DNAの複製、RNA合成、タンパク質合成など分子生物学の主要な知見は主として大腸菌を用いた研究により得られた。
また、生体物質の分解経路や合成経路などの生化学の知見も大腸菌を用いた研究で得られたものが多い。
さらに、大腸菌は組換えDNAの宿主としても有用であり、遺伝子操作実験には欠かせない生物である。
分子量に換算して30億に相当する巨大な環状二本鎖DNAを持ち、このDNAのことを染色体DNAという。
1997年染色体DNAの全長460万塩基対の配列がすべて解読され、この中に4288個のタンパク質をコードする遺伝子があることが明らかになった。

日経新聞の今回の記事中に「大腸菌のように、自分の分身を単純に複製する『無性生殖』で増える細胞」とありますが、「有性生殖、すなわち、雄の菌と雌の菌の細胞同士が接合し、雄菌から雌菌に遺伝子が移行」と記述されています。