老いを生きるということ 「旅の時間」

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老いは誰にでもやって来る。

しかし、すべての人が体験するものでもない。
ある程度生き永らえて来た人が味わうことの出来る特権といえるかも知れ
ない。

以下は日経新聞夕刊2007.8.31の「こころの玉手箱」の連載で文化庁
長官 青木保氏の愛読書の一部の紹介。
今書いたようなことを言っているんじゃないかと思う。多分。



短編集『旅の時間』の最後に収められている「航海」に出てくる老人が言う。

「夕方っていうのは寂しいんじゃなくて豊かなものなんですね。
それが来るまでの一日の光が夕方の光に籠(こも)っていて朝も昼もあった後
の夕方なんだ。
我々が年取るのが豊かな思いをすることなのと同じなんです
よ、もう若い時のもやもやも中年のごたごだもなくてそこから得たものは皆
ある。
それでしまいにその光が消えても文句言うことはないじゃないですか」

中略

職業や地位の如何を問わず「教養」を身に付けることが人間が生きるという
ことではないのか。
そして、先に引いた老人の言葉が出てくる。
旅に出る時ばかりでなくいつも身近において気の向くままにページを繰る。
30年以上、生きることの充足を教えられてきた。


紹介された愛読書の著者は吉田健一氏。

そこまで青木氏が惚れ込んだ書物ならネットででも探して(多分廃版だろうから)
みようかと思う。
吉田健一氏そのものにも興味が出てきた。

以前、水木しげる氏が日経新聞朝刊の「私の履歴書」の中で三木清著「人生論ノート」
ニューギニアの戦地に持って行って読んだということが載っていた。
高校生時代に購読(読んだ記憶は余りない)したが失くしたので早速本屋で文庫本
になったのを購入した。
本との出合いや再会はこんなものである。
人もまた然り。


さて冒頭の引用文を読んでいて思い出した作家がいる。
それは中野孝次氏。
少し前に亡くなられた方だが、その少し前に同じく日経新聞夕刊にエッセイを寄稿
されていたのを読んだ。
「老いること」についての内容だったが甚(いた)く感激した。


壮年期までの他人とのしがらみを、老後は断ち切って老年を自分のために豊かに過
ごすという内容を、愛犬とからめて書かれた実に含蓄深いエッセイだった。












<診察室その1>
70歳前の男性のEさんが診察室に入ってみえました。
私「Eさんには失礼かもしれませんが認知症にならないためにって内容をブログに
載せましたからよかったら家で見て下さい」
Eさん「もうボケてるかも知れません。先生のことも誰だか分かんなくなりそう
です。」
私「奥さんのことが分かんなくなったらさすがに心配です。」
Eさん「女房のことは忘れたいぐらいです。
でも頭にまとわりついていて忘れようにも忘れれなくて。
困ったもんですわ。」

その話を聞いていると診察机のパソコンのスクリーンセーバー
に我が女房の写真がニューッと出て来ました。
Eさんに気づかれないようにそっとマウスを動かしました。
つい最近デジカメで撮った写真を整理しないままパソコンに取り
込んでいたのです。

<診察室その2>
50代の女性のEさん。この前めまいで来院されて再来院されました。
「この前先生のいただいためまいをくすりですけど。
効かない。全然効かない。本当に効かない。」

気持ちはわかりますが、そんなに強調されても。

寿司屋さんで客が「サビ効いてないねえ」って言えば、大将に次の「にぎり」では
目が飛び出るほどサビを効かされることを知っているんでしょうかねえ。

<診察室その3>
同じく、そのEさん。
私「そのめまいはおなかが空いた時に起こりますか?
もしそうなら低血糖かも知れませんよ。
甘い物を口にして治るんなら間違いないんですけどねえ。」
Eさん「いいえ、そんなことありません」

そんなに甘くはない。


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